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岐阜城&城下町の歴史を紹介!天下を目指す強者が見た風景とは

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岐阜県の歴史ある観光スポットである金華山は、標高330m。旧名は稲葉山といい、山頂には「稲葉山城」が立っていました。戦国時代、岐阜城には油売りから身を起こした武将・長井新左衛門尉・斎藤道三親子が居城。

道三が息子・義龍に斃された後は、道三の女婿・織田信長が斎藤氏を滅ぼし、この城と地方一帯を平定。地名も「岐阜」と改称し、「岐阜城」は天下統一の本拠地という、歴史上重要な城になるのです。

こちらの記事では、岐阜城とその城下町の歴史について詳しく紹介しています。歴史好きの方はぜひご覧くださいね!

この記事を監修した人

東海地方出身、生まれてから現在まで20年以上在住。ローカル知識を生かし、ついつい読みたくなるお出かけ情報を発信します!

源頼朝に仕えた二階堂行政が築城した岐阜城の歴史

「岐阜城」の歴史は1201年(建仁元年)からスタートします。軍事目的のため、鎌倉幕府の御家人「二階堂行政(生没年不詳)」によって築城された砦が始まりだと伝えられています。行政は初代鎌倉幕府将軍・源頼朝(1147年(久安3年)~1199年(建久10年))に仕え、公文所寄人(幕府の文書を扱った役人)、政所(財政や鎌倉市中の雑人の訴訟を扱う役所)の令、別当となり、1199年(正治元年)には幕府合議制13人のひとりとなった人物。その子孫は、以後、政所執事を世襲します。

岐阜城は行政の女婿である佐藤朝光、その子伊賀光宗、光宗の弟・稲葉光資へと受け継がれ、光資統治下の時、「稲葉山城」と名付けられたといわれています。その後、政所執事・二階堂行藤(1257年(正嘉元年)~1302年(正安4年))の死後、いったんは廃城。歴史から姿を消すかと思われました。

しかし時代は下って室町時代に入ると、美濃国守護代(在国しない守護に代わり、行政を担当した役人)である斎藤利永が稲葉山城を整備して居城とします。岐阜城の歴史は、変わらず息づくことになりました。

天下布武を唱えた織田信長の居城

金の信長像

戦国時代の1525年(大永5年)、斎藤氏の家臣だった長井長弘と長井新左衛門尉が稲葉山城を攻撃。謀反は成功し、新左衛門尉が稲葉山城主となります。新左衛門尉の息子が斎藤道三で、1533年(天文2年)に家督を継ぐと、1539年(天文8年)に城の修築を行います。1541年(天文10年)、道三は守護の土岐頼芸を追放し、美濃国の実権を掌握。道三の住む稲葉山城は美濃の中心となるのです。

しかし、道三と息子・義龍が対立し、1556年(弘治2年)には歴史に名を残す「長良川の戦い」が勃発。道三は義龍に討ち取られてしまいます。その後義龍は、美濃国を狙う歴史に名高い織田信長と武力衝突を繰り返しますが、1561年(永禄4)に義龍は急死。息子で13歳の龍興が、稲葉山城主となりました。

義龍の死後も信長の侵攻は続き、それに対して龍興は、浅井長政との同盟などの対抗策を打ち出すが失敗。また、待遇を不満とし、森可成をはじめ、斎藤利治や明智光秀といった古参家臣が離脱するなど、斎藤家は今にも歴史の舞台から降りようとしています。

武将の影

そして1567年(永禄10年)、「稲葉山城の戦い」で信長に敗れると、龍興は城を脱出。勝った信長は居城を「小牧山城(愛知県小牧市)」から稲葉山城に移し、それまで「井ノ口(井口)」と呼ばれていた城下町を「岐阜」と改称しました。それに伴い、稲葉山城も「岐阜城」と呼ばれるようになったのです。これこそ、岐阜城と呼ばれるようになった歴史。

信長は城の改修、戦乱で荒廃した城下町の大規模整備を行います。また、特定商人しか持ち得なかった座や独占販売を禁止し、新興商人の自由営業を許した「楽市楽座」(歴史の教科書にも出てきましたよね)の施行、専業武士団と農民を切り離す「兵農分離」により、美濃国の経済力、武力、生産力を高めていきました。

以後、1576年(天正4年)、安土城に居城を移すまでの約10年間、岐阜城とその城下町は、信長の全国統一を推進する歴史上重要な拠点となったのです。

歴史に登場する武将の息吹を感じられるおすすめ観光スポット!

傘と刀

信長の後、岐阜城には長男の信忠が入ります。1582年(天正10年)、歴史に名を残した「本能寺の変」で信長と信忠が自刃した後は、城主は織田信孝(信長の三男)、池田輝政(信長、豊臣秀吉に仕えた戦国武将)、豊臣秀勝(豊臣秀吉の養子。織田信長の五男)と転変。歴史のページは目まぐるしく更新されていきます。

1600年(慶長5年)、城主だった信長の孫・織田秀信が「関ヶ原の戦い」で西軍に味方したため、東軍の攻撃によって落城。1601年(慶長6年)年に廃城し、天守閣や櫓、石垣などは「加納城」に移築されたとの説があります。

1910年(明治43年)、長良橋の古材を利用して、日本初となる観光目的で「模擬天守」が再建されますが、1943年(昭和18年)に焼失。再び歴史から姿を消してしまうかと思われました。しかしその後、岐阜の観光シンボルとして、また「安土桃山時代の華麗な城郭を再現したい」という市民の熱意により、1956年(昭和31年)、三層四階の天守閣が再建されました。さらに1997年(平成9年)には大改修工事が行われ、織田信長が住んだ歴史ある壮麗な天守閣の姿を見ることができます。

2011年(平成23年)、金華山山麓にある織田信長公居館跡を含む一帯は「岐阜城跡」として国の史跡に指定され、さらに2015年(平成27年)には、文化庁により、日本遺産の認定を受けています。このように岐阜城は、岐阜を訪れたら絶対に外せない歴史スポットです。岐阜城内の各階では甲冑や各種史料の展示が楽しめ、さらに、最上階の展望台「望楼の間」からは、長良川や日本アルプスなどを含む大パノラマを臨むことができます。

金華山ロープウェイ

出典:じゃらん

また歴史だけではなく、「金華山ロープウェー」から目にする国有林や長良川の美しい自然、ライトアップを含めた岐阜市街の眺望も魅力。岐阜城東側の岐阜城資料館には岐阜城にまつわる資料が展示されており、歴史ファンは見逃せない観光スポットのひとつとなっています。岐阜城とあわせて、要チェックです。

鵜飼も観れる岐阜城周辺のおすすめホテル&旅館

長良川の鵜飼

岐阜城とその周辺観光に欠かせない、おすすめの宿泊施設をご紹介します。このエリアは、約1300年前に開湯したという歴史を持つ「長良川温泉」に属し、泉質は単純鉄冷鉱泉(中性低張性冷鉱泉)。

鉄分を豊富に含んだ無色透明の温泉が、大気に触れると少しずつ赤い濁り湯に変化するのが特徴で、神経痛、筋肉痛、関節痛をはじめ、運動麻痺、うちみ、くじき、慢性消化器病、痔疾、冷え性、病後回復、健康増進などに効能が期待できます。

なお、宿泊だけでなく、日帰り入浴、無料の手湯・足湯も楽しめます。

長良川温泉 十八楼

万延元年(1860年)創業の江戸時代から続く歴史ある老舗旅館。趣きの違う2つの大浴場「川の瀬」と「川の音」、明治時代の蔵を利用した「蔵の湯」からは、歴史上有名な織田信長、徳川家康、松尾芭蕉も鵜飼いを見物したという長良川の景観を楽しめる。

まとめ

岐阜城のある美濃国は、五畿七道のひとつ「東山道(年近江、美濃、飛騨、信濃、上野、武蔵、下野の7ヵ国の国府が連なる街道)」が通る、歴史上重要な交通の要衝でした。信長が美濃という土地にこだわり、攻略後、岐阜城修築とその城下町整備に力を入れたのは、楽市楽座といった政策を、多くの人々が行き来するここから広めていくためだったのでしょう。

また信長は、歴史の教科書でも有名な「天下布武」の朱印を岐阜進出直後(1567年)から使用。天災武将・織田信長の天下取りは、まさに岐阜城から始まったといえるのです。